対談 熊川哲也×蔵健太 Special Contents

熊川哲也×蔵健太「プロフェッショナルダンサーへの道を切り拓く新時代のバレエ教育システムを」:前編

昨年9月、これまでの「K-BALLET SCHOOL本校」は、プロを目指すジュニアダンサーのための特別コースを展開する「K-BALLET ACADEMY」として生まれ変わり、英国ロイヤル・バレエ学校で日本人初の専任教師を務めた蔵健太が校長に就任。英国で確たるキャリアを築いた蔵にとって、プロの道を志す原動力となったのが少年期に出会った熊川哲也への強い憧れでした。この対談前編では、35年前の衝撃の出会いに始まり、蔵が熊川の姿から、時に言葉から、多くの貴重な学びを得たというロイヤル時代のエピソードを中心に、両者が語り合いました。

熊川哲也(くまかわ てつや)
K-BALLET TOKYO 芸術監督 K-BALLET SCHOOL 主宰

北海道生まれ。1987年英国ロイヤル・バレエ学校に留学。89年ローザンヌ国際バレエコンクールで日本人初の金賞を受賞。同年英国ロイヤル・バレエ団に東洋人として初めて入団し、93年にプリンシパルに昇格。99年Kバレエ カンパニー(現Kバレエ トウキョウ)を設立。以来芸術監督 / プリンシパルダンサーとして団を率いるほか、演出・振付家としても才を発揮。2013年紫綬褒章受章。23年一般財団法人熊川財団を創立。

蔵健太(くら けんた)
K-BALLET ACADEMY / K-BALLET SCHOOL 校長

北海道生まれ。1995年ローザンヌ国際バレエコンクールにてスカラーシップ賞を受賞し、英国ロイヤル・バレエ学校に入学。97年英国ロイヤル・バレエ団に入団、2006年ソリストに昇格し、「眠れる森の美女」ブルーバード、「ロミオとジュリエット」マキューシオ等主要な役を踊る。14年より日本人初の英国ロイヤル・バレエ学校の教師として全学年を指導。23年Kバレエ アカデミー / Kバレエ スクール校長に就任。

新たなバレエ教育専門機関「K-BALLET ACADEMY」の設立

まずはK-BALLET ACADEMY設立の経緯をお聞かせください。

新たな教育事業を熊川ディレクターと共に構築できることを大変光栄に思っています。
きっかけは昨年2月、ローザンヌ国際バレエコンクールで渡欧された熊川ディレクターと英国ロンドンでお会いしたことでした。感激の再会も束の間、ディレクターから「いま、バレエとその教育業界では多くの動きや変化が起きている。僕と共に新時代の教育システムを構築しないか」とお話をいただいたのです。
その言葉で、30年住んだ英国と10年間在籍したロイヤル・バレエ学校に別れを告げることを決心し、プロフェッショナルダンサーを専門的に育成するK-BALLET ACADEMYが誕生するに至りました。

熊川“人生の時の輪”というのはそれぞれが持っていて、その輪同士が触れ合うかは偶然でもあり、運命。今回、蔵校長を迎えるに至った経緯もまさにそうでした。ロンドンにはローザンヌで審査員を務めた後、帰りの飛行機のトランジットで立ち寄ったのですが、その時ふと思い立って「久々に食事をしないか」と蔵校長に連絡をしたのです。たまたま彼も休みで、飛んできてくれた。
久々に会ってさまざま話をする中で、当時考え始めていた教育事業の展望を語ったところ、とんとん拍子でこの話が決まりました。ちょうどその時はロイヤルの契約規約に則った退職申し出期限の直前であり、彼自身、40代半ばを迎えて自らの方向性を考え始めていた時期でもあった。あの時、ロンドンで会わなかったら、今ここに蔵校長はいなかった。すべてがプラスに働いた素晴らしいタイミングでした。

蔵さんは1995年、ローザンヌ国際バレエコンクールでスカラーシップ賞を受賞し、英国ロイヤル・バレエ学校に入学。卒業後はロイヤル・バレエ団に入団し、17年間の在籍中にはソリストとして多くの主要な役を踊られました。そして怪我をきっかけに引退後、ロイヤル・バレエ学校の専任教師となり10年を迎えようとしていました。英国で30年近くキャリアを築いてきたなか、大きな決断だったのでは。

確かにロイヤル・バレエ学校の教師というポジションは小さいものではありませんので、大変な決断ではありましたが、それでも即断できたのは、やはり日本のバレエ教育事業に対してのディレクターの熱意を強く感じたからにほかなりません。20年前にK-BALLET SCHOOLを作られた時の想い、そして今またもう一度、より多くプロのダンサーを育成するための専門的な教育機関を一から作り上げたいのだと。またその時、これからカンパニー名を「K-BALLET TOKYO」と改称することや、『眠れる森の美女』を新制作で手掛けるといったこともお話しされていた。
「Kバレエの財産である作品を受け継ぐ子供たちを育ててほしい」、そんな素敵なことを言われて「ノー」と言えるはずがありません。しかも私にとってディレクターは少年時代から今なお無二の憧れの存在ですから、「ぜひ」とお受けしたのです。

熊川いま僕はKバレエ25周年という大きな変化の時を迎えていて、これまで築いてきたものに甘んずることなく、もう一歩さらなる前進をという想いがある。その想いを蔵校長に話したのです。振り返ればKバレエを立ち上げた時、僕は26歳。当時は20代の目線と勢いとですべてにおいて自分が動いて作り上げていき、それがまた面白くてやっていたわけですが、そこから30代、40代、そして50代に入っていくと、目線や立ち位置はおのずと変わってくる。組織も大きくなってきた今、自らが動くのではなく、それを担ってくれる人間をいかに育てるかという目線にもなってきている。組織というのはそうあるべきですから。今カンパニーはアーティスティック・スタッフに40代が増えてきて、安心して任せられる状態になっている。そして教育事業ではこうして蔵校長が帰国し、新たなアカデミーを確立していくというのは素晴らしい展開だし、非常にエキサイティングですよ。

蔵健太を育んだ、熊川哲也への無限の憧れ

先ほど蔵さんから、熊川さんは少年時代からの憧れの存在というお話がありましたが、そもそものお二人の出会いは。

熊川僕がローザンヌ国際バレエコンクールでゴールドメダルを受賞した年(1989年)の夏、札幌に帰省した時に、ローザンヌの審査員でもあったヤン・ヌイッツ氏という著名な先生が毎年札幌で開催していた講習会があって、そこにちょっと顔を出したんですよ。全国津々浦々から世界を目指す若者たちが受講しに来るのですが、ゴールドメダルの直後ということもあって、男の子たちがみんな僕の周りに集まってきた。その中に一人、非常に熱心にまとわりついてきた少年がいて(笑)、それが当時10歳の蔵校長だった。その時にはゴムが付いている眼鏡をかけていて(踊っても落ちないように)、珍しいなと思ったことは覚えているものの、あまり話をした記憶はないのですが、同郷だし(北海道旭川市出身)、僕と彼の先生同士が近しい関係にあったこともあって、そこからですね。

熊川哲也さんという名はすでに非常に有名で、バレエをやっている方は誰でも知っていましたから、お会いできた時は大興奮しましたね。初めてお会いしたその時から地元の慣習で「兄さん」と呼んでいたのですが、忘れもしない当時の印象としてはまず優しい。そして、とにかくかっこいい。当たり前ながら、バレエがもの凄く上手なんです。それまでプロの方の踊りも見ていましたが、もう全然違う。柔軟性、ダイナミックさ、機動力、瞬発力、回転力、技巧……すべてのものが群を抜いていた。これがバレエなんだ、踊るだけで空気が変わるとはこういうことなんだ、と子供心にも衝撃を受けました。みんなその踊り見たさに列をなして、セミナーなのに観覧席が溢れて入れないから、時間毎に観覧者を入れ替えていた(笑)。それ以来、ディレクターへの強い憧れが、私にとって何よりの原動力になりました。

熊川に出会った翌年、11歳の蔵。熊川からのアドバイスで眼鏡からコンタクトにしたという。

その6年後、蔵さんは熊川さんの背中を追ってロイヤル・バレエ学校に留学、ロンドンで再会することになります。

当時ディレクターはプリンシパルで大スター。スクールの生徒たちもディレクターがクラスをする時は、みんなこぞって見学しに行くんですよ。特にセンターレッスンはもう絶対に見たい(笑)。今日はどんな技をやるのかとみんなで予想し合ったりしながら、釘付けになって見ていました。今日はクラスを最後まで受けてくれるかで、お菓子を賭けたりしたほどです(笑)。当時はやはり何回回るのだろう、どれくらい跳ぶのだろうと、どうしても技巧にばかり目がいっていたかもしれず、少し後になってより実感したことなのですが、ディレクターの踊りが凄いのは技巧だけではない。やはりフロー(流動性)が群を抜いていたのです。
これは私が当時ディレクターに教えていただいた、とても大事なことの一つなのですが、ある時「健太の踊りはちょっと硬い」という話があった。動きがカチカチしている、と。その時に言っていただいたのは、英語は「I danced today」と流れるように一文をワンフレーズで話すけれど、日本語は「わたしは/きょう/おどった」と音節が細かく分かれて切れている。だから身体的にも日本人は筋肉のスピードを上げるのが早いし、比較的呼吸を止めるのが早い。それは技巧的にはメリットになるけれども、流れがないし、切れ切れになってしまう。芸術性を高めるためにはやはりフローを勉強しなければダメだ、と。そのためにまずは頭の中を英語にしたほうがいい。話し方も「ストレッーチ」「プリエー」「アゲーィン」というふうに語尾を止めないように、ゆっくり話して、ゆっくり呼吸をしたほうがいい、そう教えていただいたのです。

熊川その時のことは覚えていないけれど、後年、自分が日本に戻ってきてダンサーや生徒たちに教え始めた時に分析したのは、日本人のリズム感というのはやはり2拍子なんですよ。日本語のリズムが2拍子だから、カチ、カチと踊ることはできるけれど、ワルツのような3拍子が不得手という傾向があって、だから動きにフローがない、という。英語のリズムは3拍子の雰囲気があるから、そこは理に叶ったことを言っていたのだなと。

それが常に頭の中にありまして、だから今のアカデミーの教師たちにも、なるべく指導の時は英語を使うようにと言っています。フローを身につけることは若い日本人ダンサー共通の課題ですので、まずはそういうところから始まり、力を入れていかなければと考えています。

熊川もちろん日本語でも、美しく流動的な言葉遣いで魅力的な話し方をする素敵な方もたくさんいらっしゃるから、英語がすべてではないけれども、大きなカテゴリーで言うとそういうことですよ。

あの当時、そういった大事なことをずっと教えていただいていたので、ディレクターの傍で過ごしたロンドンでの3年半というのは私の人生の中で忘れられない時間ですし、そのすべてが今でも身体に沁みついています。

蔵さんはスクールで2年学ばれたのち、バレエ団に入団されることになりますが、スクール最後の学期末試験の際には、熊川さんが審査員をされていたと伺いました。

熊川あの時の審査員は当時芸術監督だったアンソニー・ダウエル氏と、バーミンガム・ロイヤル・バレエの芸術監督だったデヴィッド・ビントレー氏、そして僕だった。彼にどういう採点をしたか詳細までは覚えていませんが、当然ながら公正公平な目で見てジャッジしたし、入団したということは僕以外の多くの人からも高く評価されていたことは明らか。生まれ持ったスタイルの良さにしても、彼が日本にいた頃は「日本を代表するダンスール・ノーブル」と言われていたくらいですから、ロイヤルに入れたのはもともとのフィジカルな才能と実力が評価されたのだと思いますよ。

ありがとうございます。バレエ団でディレクターとご一緒できたのは翌98年にディレクターが退団されるまでの1年ほどでしたが、一度だけ共演できた舞台があって、それも忘れられない思い出です。アシュトン振付『レ・パティヌール』でディレクターが主役のブルーボーイを踊られた時に、僕はブラウンボーイを踊ったのですが、その舞台がまた凄かった。オペラハウスがうねるような喝采で、まさに「Bring the house down(オペラハウスの屋根が壊れる)」。ダンサーが本当に素晴らしい演技をした時、オーケストラは足を鳴らすのですが、客席の割れんばかりの拍手にそれが重なり、ドドドドッ、ドドドドッ……もう音が全然違うんです。そういうことが起きるのはディレクターの舞台だけでしたから、本当に伝説ですし、その場に一度でも共演者として立ち合えたのは幸せなことだったと思います。

その後、熊川さんは日本に戻ってKバレエを創設し、蔵さんはロイヤル・バレエで活躍されていくことになります。熊川さんが去った後も、バレエ団においてその存在を色濃く感じる機会が多々あったと伺っています。

そうですね。先ほどディレクターにノーブルとおっしゃっていただいたのですが、英国では私もどちらかというと技巧的な役が多く、たとえばマカロワ版『ラ・バヤデール』のブロンズ・アイドルや、アシュトン振付『ピーターラビットと仲間たち』のジェレミー・フィシャーなど、ディレクターが踊っていた役を踊る時には必ず指導者からディレクターの話が出ました。「熊川のためにこの役は作られた」といったことはもちろん、「熊川だったらこれができた」と比べられることもしばしばありました。ですがそれをネガティブに捉えたことはないです。いつも憧れでしたから。ディレクターが踊った映像もたくさん残っていましたので、そのほとんどを見せていただいたのですが、どれもが完璧なんですよ。だからあの頃は、ただただそれに近づきたくて、どうにかしてこういうふうになれないか、自分の特徴を生かして何かできないか、とディレクターの存在をモチベーションにしていました。

熊川たしかKバレエを立ち上げる時に「一緒にやるか?」と彼に言ったことがあって、その時は悩み悩んだ末に「もう少しロイヤルで頑張ります」ということで「じゃあまたどこかで」となった。そこから意志をもってロイヤルでダンサーとして17年も踊り、教師として研鑽を積み、自分のキャリアをしっかりと築き上げたのだから、本当に素晴らしいですよ。

やはりあの当時は、ロイヤルに契約をいただいたばかりで、ディレクターに少しでも近づきたい、そうなるためにはもう少しロンドンで勉強しなければという気持ちがありましたから。そこから25年の時を経て、こうした形で呼んでいただけたのは感無量です。

ロイヤル・バレエ時代の蔵。ソリストとして多くの主要な役を踊った。
左からアシュトン振付『シルヴィア』のアムール(左)、『眠れる森の美女』のブルーバード、マクミラン振付『マノン』の貴族(左)。